今回は気楽な雑談です。

 およそ10年以上前、佐藤さんが国際学会から帰ってきて
「これからの生物学研究に大切なのは "網羅性" だ」と言いました。当時この言葉の意味があまりピンと来なかったのですが、今はゲノム中の全ての遺伝子が記載済である、推理小説で言えば「すべての犯人候補が記述されている」状態です。ですから言葉の持つ奥深い意味がよく分かります。つまり、網羅性を考えない昔ながらのアイディアや方法で生物学研究を行うことはナンセンスになっていく、ということなのです。今の時代、数年先を先取りした、そのような予想は何になるのでしょうか?
*この言葉を見ても佐藤さんの「ディープ・シンカー」ぶりがよく分かります。小説の中の天才たちの「頭の回転が良い」ことは大した意味がないのではないかと考えてしまいます(前世紀最大級の天才、ジョン・フォン・ノイマンもものすごく計算が速かったそうなのですが、彼の天才性は、そのような他の人がすぐに気が付く部分以外にあったのかもしれません)。森博嗣さんの小説中の天才の表現として、複数の人格を同時に受け入れることのできる「脳の容量の大きさ」が描かれていましたが、的確な表現だと誰かが書いていましたし、私もそう思います。

 ゲノム構造が明らかになっていない生物を用いている研究者の皆さんも、他の近縁な生き物とのシンテニーを使うか、他のゲノム構造が明らかになっている生き物に解析対象を移すか、あるいは手を休めて「役者を揃えて」みてはどうかと思います。
 今は次世代シーケンシングの時代ですから、ゲノムを決定することはひとまず置いておいて、遺伝子という役者たちをを取りそろえるために、特定の遺伝子があるかないかとか遺伝子のコピー数も瞬時に分かる、プライマーを設計するのにも役立つ、ゲノムDNAを大規模にシーケンシングすることは非常に有意義なことであると思います(アセンブルがうまく行くかとか、論文になるかというようなことは、とりあえず放っておいて)。

 私が生化学の教科書を読んだ時の印象ですが、その分子の構造ではなくて、役目というか存在理由のようなものを、あえて軽視するような方向にあるような印象を受けました(間違っていたらすみません)。つまり「なぜ」という疑問をあえて廃していこうというような感じです。生物学分野の顕著な特徴として、生化学的な性質に加えて、おのおのの分子の持つ情報論的な性質も重要になってくることが挙げられますので、「なぜ」という疑問は大切にしていった方が良いのではないかと思いました。

 私が大学院の時に「発生生物学者が "進化" を考えることは避けるべきだ」ということを色々な先輩から言われました(当時の日本語の書き物にもそんなことが書いてあります)。きっと歴史的な経緯があって、そのようなセリフが生まれたのだと思いますが、今ではナンセンスです。ドブジャンスキーの名言に「進化を考えに入れない限り、生物学のどんな現象も意味を持たない」というものがあります。これから若い人たちは他人からアドバイスされるままではなく、どんな問題も、考えることを避けるべきかそうでないのか、自分の頭で考えてみてから、自由な心で判断を下すべきだと思います。

 

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