上は斎藤茂吉の長男・斎藤茂太(?)の随筆です。

 昭和五年一月某日、出羽獄は突然玄関からはいつて来た。するとそれを一目見た男の子は大声に泣叫んで逃げた。畳を一直線に走つて次の間のを直角に折れて左に曲つて、洗面所と便所の隅に身を隠すやうにして泣いてゐる。ある限りの声を張りあげるので他人が聞いたらば何事が起つたか知らんとおもふほどである。狭い部屋に出羽獄はもてあますやうに体を置いて、相撲の話を別にせず蜜柑などを食つてるると、からかみが一寸明いて、「無礼者!」と叫んで逃げて行く音がする。これは童が出羽獄に対つて威嚇を蒙つたその復讐と突撃とに来たのである。突然のこの行為に皆が驚いてカると、童が泣きじやくりながら又やつて来た。唐紙障子を一寸またあけて、「無礼者!無礼者!」と云つた。今度は二度いつて駈けて行つた。この「無礼者!」では皆が大いに笑つたが、幼童は出 羽獄の威嚇にあつて残念で堪らず、号泣してみる間にこの復讐の方法を思ひついたものらしい。父は「無礼者」という言葉を、私が婆やなどから読んでもらった「スケさんカクさん」の講談から由来したものと空想している。しかし、私にはその記憶がない。ただ、この私の「無礼者」は現在の中年も越えそうな年代に至るまでつづいているのだ。

 下は「その男の子」北杜夫の思い出話「どくとるマンボウ追想記」です。

 …あった、あった。それは出羽獄文治郎、通称文ちゃんといわれる角力とりのことである。日本一背の高い(正確には二番目)力士として人気があった。彼もまた、祖父が郷里の山形から小学生のとき連れてきて、実際の戸籍はべつだが、世間体には養子のようにして育てられた男である。祖父はもちろん角力とりにするつもりだったが、彼は最後までそれを嫌がった。結局は出羽ノ海部屋に人り、最盛期には関脇にまでなった。「楡家の人びと」のなかでは蔵王山として描写されている。その出羽獄は、ときどき父のところへやってきた。私が小学校へあがるまえからその記憶がある。そのころ、私は出羽獄がこわくてたまらなかった。なにしろ常識を外れた巨体だし、ほそ長い顔も願がとりわけ長く怪異な容貌といってよかったし、ぼそぼそとした異様な声で話したからだ。たたき外から戻ってきて、玄関の三和土のうえに、草履屋の看板のような大草履を見出すと、もう私の胸は早鐘のように波打った。ときにはそのまま泣きだしてしまうことさえあった。父の随筆に、そうした私のことを書いたものがある。「出羽獄は東京に居るうちは時々私の家に遊びに来た。小言などを言ふとそれでも苦い顔をして聴くまでになつたと謂つていいが時には単純な論理の分疏などもすることがあつた。私の次男に宗吉といふのが居る。昭和五年にとつて四歳(数へ年)になつた。この子は出羽獄の顔を見るといつも大ごゑを揚げて泣いた」。
 少し燥病がかっているとき、私は外国で立腹したとき、非常にしばしばこの「ブレイモノ!」を使用する。「バカ」というと外国でも意が通じてしまうが、「ブレイモノ」の意まではわからない。しかし、この語感がかなりの威圧をもつらしく、暴利をふっかけようとしたタクシーの運転手や、あくどいエジプトの物売りなども、この一言でたいていひっこんでしまう。巨大な出羽獄がこわくて、復讐の意から泣きじゃくりながら「無礼者!」と言ったらしいが、後年、あんがいとこれが役に立っているのである。

 

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